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a box of chocolates

You never know what you're gonna get.

3.11

2011年3月11日、僕は東京の飯田橋にいた。普段は京都にいる僕が、なんでそんなところにいたかというと、高専生のビジネスアイデアコンテストにはてな代表の審査員として参加していたから。年に一度あるかないかの東京出張の日に、たまたま震災が発生して、僕は小さく被災した。運が悪い。

今日で東日本大震災から丸2年。報道を見る限りでは、被災地の復興はまだまだこれから。復興に向けてはもっともっとたくさんのサポートが必要なのだろうけど、時間は残酷なもので、少しずつ震災への関心は失われている。僕自身、あの日体験したことを、少しずつ忘れていっているような気がしている。

あの日体験したこと、感じたことを、忘れてしまう前に書き残しておこう。2年たってようやくそういう気持ちになった。

3月11日。
飯田橋のあずさ監査法人さんのビルで、高専生たちが自分たちが考えたビジネスアイデアをプレゼンしていた。
午後14時46分。
何組目かの発表のとき、会場が揺れ始めた。
「おお、地震だ」
「けっこう揺れるね」
地震があると、台風の日の子供みたいに少し変なテンションになる。
揺れてる揺れてる、なんて言いながらも、まだみんなの顔には独特の余裕の笑みがあった。地震大国日本ではありがちないつもの小さな地震、という感覚だったと思う。
が、揺れがあるしきい値を超えて、どこかの机がガタッと傾いた瞬間、会場にいたある女生徒が悲鳴をあげた。
「きゃっ!」
その悲鳴を合図に、まるでスイッチが入ったかのように、その場にいたみんなの表情が一変した。その瞬間を今でもはっきりと覚えている。日常が非日常に、平静からパニックになる瞬間だった。震災のときのことを今でもたまに思い出すけれど、このパニックになる瞬間の空気が今だに恐ろしい。
ゆさゆさみしみしと大きく揺れる会場。自然とみんな机の下へ避難していた。
長く揺れていたように思うが、実際の時間はそうではなかったかもしれない。
とても大きな地震だったので、イベントを続行するかどうか、運営側で協議された。結果、会場が耐震性のあるしっかりした建物であることと、高専生が地方から出てきていて東京に不慣れであるということで、そのままイベントを続行することになった。このときの判断は、その後の東京の混乱を思うと正解だったように思う。

その後、ときおり大きく揺れる建物の中で、高専生たちはみんな一生懸命プレゼンしていた。

夕方、発表が終わり、小さな懇親会が設けられた。会場に用意してもらったサンドイッチをつまんで、会場の高専生たちと交流していたが、「今日は京都に帰れるのかな」というのが気になっていた。解散という時間になると、交通の状況がいよいよわかりはじめた。電車はことごとく止まっているとのこと。東京駅に向かっても、新幹線は今日は復旧しなさそうという話を伝え聞いて、さて、いよいよ困ったことになったなと思い始めた。どうやって帰ろうか。
すると飯田橋から2駅先の御茶ノ水駅で働いていたお義兄さんから「御茶ノ水を出たから水道橋の駅で落ち合おう」「田端の義妹の家に泊まればいい」というメールが入った。妻経由で、僕が東京の飯田橋にいることを知ったらしい。送信時間は15分ほど前。この時点で、電話はもちろん繋がらないし、メールも同期的な連絡には使えない状態だった。
会場に寝泊まりしてもらってもいいですよというありがたい申し出をお断りして、僕は飯田橋を出発した。
道にはたくさんの人が溢れていた。みな一様に不安な顔をしていて、そして疲れていた。交差点では殺気立った怒鳴り声が飛び交う。iPhoneのマップを頼りに、なんとか水道橋へとたどり着いた。駅の前では電車が止まっていますという案内を前に、多くの人が途方にくれていた。
こんな中でお義兄さんは見つかるのかなと不安だったが、意外とあっさり、人混みを抜けて歩いてくるお義兄さんに会うことができた。親戚の顔、知った顔に会って、僕は少しほっとした。お義兄さんは、田端に住む義妹に連絡してくれたところだった。あてにしていた義妹は、なんとその日、たまたま出張で横浜にいるということだった。義妹も日帰りを予定していたのだが、地震による電車の運休のため、横浜に足止めされているとのこと。義妹の家をあてにしていた僕らは、さてどうしようという感じになったのだが、お義兄さんが「考えても仕方ないし、飯でも行こうか」と誘ってくれて、近くにあった居酒屋へ入った。
あの日の夜は、まだ開店している店が多かった。翌日くらいから仕入れができず営業をストップする店が増えるのだが、当日の夜は、わりと賑わっていた。
居酒屋に入って、ビールとおつまみを注文した。僕はiPhoneTwitterを眺める。
気仙沼が燃えているという書き込みが目に入った。ワンセグがなかったので基本的にテキストの情報しか入ってこず、タイムラインに流れている各地の被害の様子がいまひとつぴんとこなかった。「とんでもないときに出張してきたね」「ほんとですね」なんて会話をお義兄さんとしていたら、東横線が動き始めたという情報が入ってきた。すぐさまメールで義妹に教えてあげると、パシフィコ横浜に設けられている避難所にはそういう情報は来ていないということだった。それでも、電車が動いているならと、東横線の駅まで歩いてくれて、結果電車に乗って渋谷の方へと移動し始めたという連絡が入ってきた。
じゃあ僕らも田端まで移動しましょうかと、水道橋の居酒屋を出て、田端へ向かって歩きはじめた。車道では車が渋滞を起こし、歩道では家路へ向かう人たちがとぼとぼと歩いていた。
23時ごろ、JR田端駅へとたどり着いた。少し先に見えるJR本社の窓は明るく光っていた。おそらく夜通しで震災へと対応していたのだと思う。
駅前の中華屋に入り、適当に注文して、義妹が到着するのを待っていた。が、渋谷から田端までの移動手段も限られているらしく、なかなかたどり着けないようだった。
0時過ぎにお店を出て、駅前にある商業ビルに入ってみた。そこのロビーでは、帰宅できない人たちが、ダンボールを敷いて新聞を身にまとい暖をとっていた。僕とお義兄さんも、帰宅難民用に置いてあったダンボールの束からいくつか引きぬいて、おしりに敷いて床に座った。薄暗いロビーに、人が一定の距離を保ってぽつりぽつりと座っている。僕はお義兄さんと一緒だったので、だいぶ心強かったが、もしひとりだったらここにいる多くの人たちのように心細さに震えていたのだろうと思うと、怖くなってきた。
1時半ごろ、色々な乗り物を乗り継いで、義妹がやってきた。そこから歩くこと15分。義妹の家に2時前になんとかたどり着いた。シャワーを借りてさっぱりする。テレビをつけると、報道番組が被害の様子を繰り返し映していた。頭が思考を停止していたのか、そういう被害の様子を見ても、自分の体験とシンクロせず、目や耳から入った情報はすぐに頭から抜けていった。長く歩いたからか、あるいは緊張が緩んだのか、意外とすっと寝ることができた。
翌朝、お義兄さんは早々に仕事へ出かけていった。保険関係の仕事をしているから、色々と忙しくなりそうだと話していた。
新幹線が動いているか調べてみたところ、復旧しているというニュースを見つけた。義妹に別れをつげ、家を出た。田端駅で新幹線の切符を買い、東京駅へと向かう。新幹線に乗り、電車が動き始めたとき、心からほっとした。家族に会える。それだけで緊張した心と身体がほぐれるような思いだった。
家にたどり着くと、妻も子供もとても喜んでくれた。日帰りのつもりが一泊することになってしまった僕をとても心配していたそうだ。

あの日、東京で路頭に迷った僕を支えてくれたのは、人の繋がりだった。実際に会って助け合ったお義兄さんと義妹。TwitterFacebook上で情報を提供してくれたひとたち。メールや電話で連絡を取り合った友人たち。いまさらだけど、ありがとうと感謝を伝えたい。